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更新日:2018年3月28日

市指定文化財として、新たに4件指定されました。

相撲土俵四本柱 (若一王子社所蔵三本、神光寺所蔵一本)

 いずれの柱も、江戸時代末期、祭礼で相撲が奉納されたときに四隅に建てられていたとみられます。地方に相撲土俵柱自体が現存している例は少なく、大変貴重なものです。

相撲土俵四本柱   若一王子社所蔵 三本

 柱に彫られた御免 り(ごめんぼり)の刻銘(いんこくめい)に「安西 惣氏子中」とあり、江戸時代末期に安城村西尾での祭礼で相撲が奉納されたときに使用されたものと考えられます。本来、柱は4本あるはずですが、現存しているのは3本です。

 銘中に「免許」とありますが、これは江戸相撲の年寄であった清見部屋(きよみがたべや)の4代目清見(きよみがたまたいち、生年不明~明治2年?~1869、文久2年1862襲名)が免許したことを表しています。清見潟部屋は、初代清見又蔵(またぞう)三河幡豆郡和気村(現西尾市)の出身だった関係で三河地方の相撲興行に強い影響力を持ち続けていました。

 この時代、地方の村の祭礼での奉納相撲といえども、江戸相撲の年寄の免許がなければ柱を建てることができませんでした。さらに柱には、それぞれ二子山長十(ふたごやまちょうじゅう)若虎仙蔵(わかとらせんぞう)三河嵜大吉(みかわざきだいきち)が、この奉納相撲の頭取(とうどり)を務めたことも記されています。二子山長十は幡豆郡ツ面(現西尾市)、若虎仙蔵は同じく幡豆郡市子村(現西尾市)、三河嵜大吉は碧海郡桜井村(現安城市)の出身で、清見潟部屋の地方頭取でした。とくに、二子山長十は清見潟の「三河の総頭取」とも言われていた人物です。なお、二子山長十は上条町神光寺の相撲柱にも取次ぎを務めたことが記されています。

 

相撲土俵四本柱   神光寺所蔵 一本

 柱に彫られた御免彫り(ごめんぼり)刻銘(いんこくめい)から、江戸時代末期に上条白山媛神社の祭礼で相撲が奉納されたときに使用されたもののうちの一本と考えられます。

 銘中に「免許」とありますが、これは江戸相撲の年寄であった3代目清見市(きよみがたまたいち、安永9年~元治元年 1780~1864)が免許したことを表しています。この清見潟又市は、清見部屋(きよみがたべや)の3代目の親方(文政6年1823襲名)で、清見潟部屋を飛躍的に発展させた人物であり、当時、三河地方一帯の相撲興行を取り仕切っていました。この時代、地方の村の祭礼での奉納相撲といえども、江戸相撲の年寄の免許がなければ柱を建てることができませんでした。さらに柱には、二子山十(ふたごやまちょうじゅう)がこの奉納相撲の取次(とりつぎ)をしたことも記されています。

 また銘中には、「九月十日」の記載はあるものの、奉納の年が彫られていませんが、角力頭取(すもうとうどり)桑之川助(くわのかわぜんすけ)が大正5年(1916)に記した「四本柱免許近在控(よんほんばしらめんきょきんざいひかえ)」の記述より、天保6年(1835)の白山権現(現白山媛神社)9月10日の祭礼に奉納された四本柱の1本と推定されます。

 なお、安城市内に現存する相撲土俵四本柱は、上記の若一王子社・神光寺蔵の柱のほかに、福釜町内会に残されており、3組とも清見潟又市が免許したと記されていますが、福釜町内会と若一王子社のものは紀年銘から4代目又市のことと思われます

飛天像   神光寺所蔵

 神光寺は、上条白山神社の神宮寺だったものが、明治の神仏分離により独立、現在は浄土宗西山派となっている。寺伝では、養老2年(718)の創建とされる。しかし、本像についての来歴は寺伝としても残っておらず、不明です。平成27年の愛知県史編さんに伴う調査により、発見されました。

 この像は、本来、雲中供養菩薩像(うんちゅうくようぼさつぞう、阿弥陀如来とともに雲に乗って浄土から迎えに来る仏)あるいは光背飛天(こうはいひてん、仏像の背後にある仏身から放射される光明を象徴的に表す装飾に配された天人・天女)などの群像のうちの一体だったものが、何らかの理由で分離されたとみられます。木造(ヒノキ)の一材製で、木芯の位置は不明です。

 像の形状は、垂髻(すいけい、後ろに束ねた髪型 すべしがみの前に花冠(かかん)をつけ、(てんかんだい、宝冠または宝冠を支える輪)をかぶります。上瞼をわずかに弓なりに曲げて咲形(えみがた)にし、口は閉じています。耳朶(じだ、みみたぶ)不貫(ふかん)で、三道(さんどう、首に表される3本の筋)を刻出します。条帛(じょうはく、左肩から斜めに垂らすタスキ状の布)の先は前方では左足大腿部あたりまでありますが、後方部は省略されています。裙(くん、下半身に巻いた布)をまとい、腰で折り返し一段、間に腰布を巻いています。(てんね、体にまとう細長い布)の有無は現状ではよく分かりません。鼻、右耳朶、左先、右腕全体および岩座は後補です。

 上半身は、頭部を左に振りながら体を右後方に反らし、左ひじから折り曲げてのひら がせ、右手を後方の岩座上に置き、下半身は、右後方に反らす体勢とは反対に左足を開いて立膝とし、右足は膝を屈しています。

 雲に相当するものは、像背右腰あたりと左膝頭後方に一部が残存しています。雲は下方にさらに広がっていたと推定されます。

像底を斜めにり縮めているため、本来は左に約20°傾き、楽器を奏でるか、供物を捧げるポーズだったと考えられます。

 左体側と左上腕部の間に(しっぱく、漆の上に金箔を押したもの)が一部残りますが、後補と考えられます。

上瞼をわずかに弓なりに曲げて笑う咲形(えみがた)の表情は、平安時代の定朝(じょうちょう、平安時代中期の仏師)以後によく現れます。また、左膝頭後方に一部が残る立ち上がる雲の表現から、唐代の図像との関連を指摘する意見もあります。

以上のことから、本像の制作年代は平安時代後期と推定されますが、作者は不明です。

 神光寺に伝わる仏像の中でも格段に古く、文化史上、重要なものです。また、飛天が配された光背全体および本体である仏像の規模を考えると、相当な大きさとなります。平安時代後期の安城地域に、このような大規模な仏像の存在が想定されることは、地域方の古代史を考える上で興味深いものです。

 

幽囚日誌   誓願寺所蔵(歴史博物館寄託)

 明治4年(1871)3月9日の大浜騒動(おおはまそうどう)の首唱者 石川嶺(いしかわたいれい、天保14年~明治4年1843~71)が獄中で記した自筆の日誌です。逮捕された3月10日から4月27日まで記述されています。表紙は、逮捕翌日の3月11日付となっています。

ーーーーー大浜騒動とは、明治新政府の神道国教化政策への不満とキリスト教浸透に対する危機感を抱いた東本願寺下の寺院僧侶と門徒の集団が、大浜(現碧南市)を飛び地支配していた上総菊間藩(現千葉県市原市)の役人と鷲塚(わしづか、現碧南市)で交渉した際、役人1人を殺害してしまった事件。名称は、藩の出張所が大浜にあったことに由来します。鷲塚騒動、菊間藩事件とも呼ばれます。ーーーーー

 石川台嶺は、幡豆郡室村(現西尾市)の(真宗大谷派)の3男として生まれ、24歳で碧海小川村(現安城市小川町)の(真宗大谷派)英(りょうえい)の養子となりました。騒動当時、台嶺は専修坊(せんじゅぼう、現高浜市・真宗大谷派)の星川法沢(ほしかわほうたく)らとともに三河護法会(みかわごほうかい)を結成し、幹事を務めていました。

 本資料の内容は、役人の尋問と台嶺の応答が極めて詳細に記されています。また、獄舎での生活行儀、家族や親戚、知友・門徒との音信、政府や本山派遣役人の動向の情報に関することなど、何らかの記事がほぼ毎日記録されています。

 こうした内容から、台嶺は、今後行われる裁判のための備忘録(びぼうろく)として記録したものと考えられています。あわせて、台嶺の心情や獄中での生活、特に劣悪な獄舎の環境なども詳しく知ることができます。また、幕末から明治初期の真宗僧である台嶺の人物像がよくうかがえ、神仏分離令(しんふつぶつりれい)および廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に対する護法一揆(ごほういっき)として日本史上に知られる大浜騒動に関する最重要資料のひとつです。

 逮捕された台嶺は、裁判の後、騒動同年の12月27日に岡崎城で判決がいい渡され、斬首となりました。実刑とされた僧侶は台嶺を含め32人、門徒百姓8人でした。

 大浜騒動は、幕末から明治期へ移行する際の宗教観や社会情勢を考える上で、日本史上欠くことが出来ない重要事件です。本資料は、その主唱者である石川台嶺の直筆獄中記であり、大きく変化する歴史のまさにその一部を表しているといえます。

 

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