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更新日:2014年6月3日

本證寺 鐘楼 genzon

 本證寺 概要

 

 本證寺は鎌倉時代後期に慶円(きょうえん)によって創建されたと伝えられる真宗寺院です。室町時代中期には連如の布教によって本願寺派に属し、岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに真宗三河三か寺として大きな勢力をもちました。永禄6年(1563)秋ごろに起こった三河一向一揆では中心寺院として本願寺門徒を率い、徳川家康と戦いましたが、5か月後には破れ、三河は真宗禁制の地となりました。その後天正13年(1585)に禁制が解かれると、本堂などの再建を果たし、江戸時代には三河触頭三か寺の一つとして再興を遂げ、その末寺は二百余寺を数えるほどの寺勢を誇りました。 

 

解体修理

 本證寺の鐘楼は、四隅の柱全てに2本の脇柱が立てられており、全部で12本の柱があることが特徴です。このような建築は寺格の高い寺院に見られるようです。

鐘楼は長年の風雨により各所に傷みが見られるようになりました。特に東側の屋根は大きくたわんでしまい、放置しておくと瓦が落下する危険があることから、平成20年に解体修理を行いました。 

鐘楼の鬼瓦に元禄十六年の文字

南側の鬼瓦には、「元禄十六癸未歳七月吉日」

 

(↑鬼側を後方から見たところ)

北側の鬼瓦には、「三州岡崎伝馬町住藤原瓦師佐口与七郎作」

(↑鬼瓦を上から見たところ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鬼瓦 と記されていることが分かりました。

 元禄16年は西暦1703年で、今から300年以上前になります。本證寺で確認されているこれまでの銘文のある瓦では最古のものとなります。本證寺に残る江戸中・後期の瓦は藤井村(現在の藤井町)の瓦師岩瀬家の手によるものが多く、太鼓楼の宝暦10年(1760)、庫裏の文政13年(1830)、本堂の安政6年(1859)銘のもの等に藤井村瓦屋利助、岩瀬庄蔵・金蔵などの銘が確認されています。

 

 

 ←鬼瓦

部材に書かれた墨書

解体の際、部材に墨書が確認されました。

「牛久保□□衛門元禄□□」

「牛久保傅助建」

「勘右衛門道」

の3点です。「牛久保□□衛門元禄□□」「牛久保傅助建」の2点は、現在の豊川市牛久保にいた大工岡田五左衛門は当時の有名な大工でした。岡田家に伝えられる文書によれば、安城市内でも円光寺本堂、法行寺本堂、大岡白山神社拝殿をはじめ、数多くの建物が岡田家の手により建てられたようです。

「勘右衛門道」は、意味ははっきりとは分かりませんが鐘楼の南側に住んでいたのが水野勘右衛門であることから、何らかの関係があると考えられます。

 「元禄拾七甲申歳」 
 「宝永元年六月吉日」
  (右側写真)
 「寶永元甲申年六月晦日」 
 「 寶永元年七月三日」 
 「 寶永元年甲申歳」 
 「 寶永元年甲申中夏」 

20080620-005
墨書赤外線

 部材の表面が風化しているため、肉眼では「牛」の文字しか判読できませんが、赤外線を照射すると「久保」の文字もかろうじて判読できます。

 

1700年頃いまの姿に

見上げ 本證寺の建物の建立年代は、本堂が最も古く、遅くとも寛文3年(1663)には建てられていたようです。次いで鐘楼が元禄16年(1703)に、山門が宝永元年(1704)に建設され、鼓楼が宝暦10年(1760)に建てられました。庫裏の前にある裏門も、年代ははっきりとはわかりませんが、様式から1700年前後のものと考えられます。また、鼓楼に転用されていた部材に宝永7年(1710)の墨書が発見されていることから、現在残っていない建物で宝永7年に建立されたものがあることが分かります。本證寺が一向一揆のあと破脚され、再興が許される天正13年(1585)以後、徐々に整備されていき、1700年前後には現在見られるような伽藍がほぼ完成されたと考えられます。

修復前⇔修復後

 

修復前

修復後

修復前
修復後

 

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