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更新日:2016年2月23日

平成22年度の調査

 安城市内には現在250箇所以上の遺跡が残されています。私たちはそこから先人たちが生きた時代の生活を知ることができます。

 平成22年度は、発掘調査・試掘調査を13件実施しました。その中から4件をここで紹介します。

 姫塚遺跡 ひめづかいせき (姫小川町)

  姫塚遺跡は碧海台地の東端に立地し、古墳時代前期に築造された姫小川古墳と姫塚古墳の間をつなぐように存在します。

 今回の発掘調査は、個人住宅建築にともなう緊急調査で、平成20年度の姫塚古墳の調査区と一部重複しています。今回の調査でも平成20年度の調査と同様、古墳を取り囲む溝(周溝 しゅうこう)とみられる遺構が確認できました。周溝の大きさは幅5.5m、深さ0.8mでした。周溝は現在の墳丘から少し離れたところに位置します。これは、もともと円形をしていた墳形が削られて現在のような形になったためだと考えられます。周溝の中からは、平成20年度の調査と同様に、古墳時代の土器や埴輪などの遺物は見つからず、平安時代や鎌倉時代の土器が出土しました。これは、周溝が奈良時代までは埋められずに残っており、平安時代以降に埋まったためだと考えられます。

 なお、平成20年度の調査で、崖古墳の周溝と思われた溝は、今回の調査で崖古墳を一周しないことがわかり、周溝ではないことが明らかになりました。

 周溝の北側に少し周溝と重なるようにして、直径約3.6m、深さ約2.1mの大きな竪穴が見つかりました。この竪穴は周溝が埋まってしまってから掘られており、中からは鎌倉時代や室町時代の土器が多く出土しました。

 調査区の南西では100を超える柱穴が見つかっており、中から出土した遺物の多くは鎌倉時代の土器です。平成21年度の調査でも数多くの柱穴が見つかっています。中から出土した遺物には古墳時代から戦国時代にかけての土器が含まれていましたが、最も多いのは鎌倉時代の土器でした。これらのことから、鎌倉時代には姫塚古墳の南西側に集落が広がっていたことがわかりました。

 鎌倉時代には周溝は埋まり、姫塚古墳の墳丘は大きく削られ、古墳のすぐ側まで土地が利用されていたことが明らかになりました。

調査期間

     平成22年7月9~28日

姫塚古墳と調査区(南から撮影)

 姫塚古墳と

   奥の茂みが姫塚古墳です。

出土土器

姫小川土器

姫塚遺跡調査区と姫塚古墳

   姫塚遺跡

 

 

 

姫塚古墳からみた調査区(北から撮影)

 姫全景2

中央を横方向に横切る溝が周溝です。

その下方に写っているのが、中世の竪穴です。

調査区南西側(北から撮影) 

 姫全景1

 100を超える柱穴がみつかりました。

 堀内古墳 ほりうちこふん (堀内町)

 市指定史跡・堀内古墳は、三河を代表する桜井古墳群(4~5世紀)を構成する古墳のひとつです。今回は名鉄西尾線堀内公園駅周辺の市道拡幅計画に伴う事前調査にあわせて、堀内古墳の範囲確認調査を行いました。

 堀内古墳は、直径20mほどの円墳とするする説、または地籍図から前方部が南にのびる墳丘長40m前後の前方後円(方)墳とする説がありました。そこでD区を設定し、堀内古墳の形状を確認することにしました。調査の結果、前方部の痕跡は確認されず、現状では直径約23mの円墳と判断しました。

 墳丘の裾を調査したC・E区において、古墳時代の凹凸のある地表面に、互い違いに赤褐色土や黒褐色土を積んで整地し、そこに黄褐色土を盛ったという、古墳築造の様子は発見されておらず、古墳の時期を特定することはできませんでした。

 B・F区を東西に横切る溝には縄文土器を多量に含む土が堆積していました。これは堀内古墳の北側に隣接する堀内貝塚と関連するものと考えられます。堀内貝塚は縄文時代後期~弥生時代前期(およそ3000年前)の遺跡で、人が食べものなどを捨てた「貝塚」のほか、土坑墓13基・土器棺墓19基(縄文時代晩期~弥生時代前期)の墓地(墓域)が見つかっています。また、F区では、近世から近代の陶磁器を多数出土した土坑も見つかっており、堀内町の縄文時代から現代へとつながる遺跡の動向がうかがわれます。

 D区では、奈良時代の溝が平安~室町時代に削平されているようすを確認しました。このことは、古墳の周囲で土地改変が進められたことを示すとともに、周辺に古代の居住域の存在も推定されます。

 今回は、部分的な調査であり、古墳が築かれた時期は特定されていませんが、今後の継続的な調査によって詳細を明らかにしてきたいと考えています。

 

堀内古墳断面

調査期間

     平成22年6月16日~7月7日

        11月9日~12月25日

堀内古墳とC区

 堀内古墳

堀内古墳と調査区

 堀内古墳調査区

C区から出土した縄文土器

堀内縄文土器

 

 

 

 

A・F区から出土した幕末の陶器

堀内F

D区から出土した古代の土器

掘内D

 本證寺境内地 ほんしょうじけいだいち (野寺町)

  ※現在は国指定史跡「本證寺境内」という名称ですが、国史跡の指定前(平成27年3月以前)は県指定史跡「本證寺境内地」という名称であったため、この名称で掲載しております。

 本證寺は三河三か寺と呼ばれる三河真宗の中心的な寺院です。愛知県指定文化財の本堂をはじめとする建物がある境内地の周りには、土塁や二重の堀が巡っています。それは戦国時代のお城のようにみえることから城郭伽藍あるいは城郭寺院と呼ばれ、県指定の史跡になっています。

 個人住宅建設に伴う事前調査を含む今回の調査は、江戸時代に残された本證寺の絵図に認められる外堀の有無などを確認することを目的とし、調査区を5か所(E~I区)に設定しました。

 平成21年度に調査したA区では、堀の東端の位置は確認できましたが、西端は調査区の外にはずれていました。そこで、今年度は、A区と道路を挟んだ西側にE・F区を設定しました。その結果、E・F区では堀が確認できなかったため、堀の西端は道路の下に位置することがわかりました。

 一方、G・H・I区では、外堀を確認することができました。

 G区では幅4.5m、深さ3.2mの急傾斜のV字形をした堀(外堀)と本證寺境内地の内側に築かれた土塁の基部らしき遺構の一部を発見しました。これまでの本證寺では、戦国時代(16世紀)につくられた深く狭い堀を江戸時代後期(19世紀)に広くするために再整備したことがわかっていました。しかし、この調査区で発見された堀は江戸時代に手が加えられたものではなく、戦国時代に築かれたそのままの形を残していたと考えられ、戦国から江戸時代にかけての本證寺における堀のさまざまな維持方法を考える手がかりとなります。なお、H・I区は、堀の位置を確認したのみで、堀の底まで掘り下げていません。

 また、これまでの調査で確認された外堀の位置は、想定された本證寺境内地の復元案とほぼ一致しており、このことも重要な成果のひとつになっています。

 

 

 

 

 

 

 

調査期間

   平成22年7月7日~8月3日

 平成23年3月11日~3月26日

 G区で見つかった堀

G区

写っている人物から堀の深さをうかがい知ることができます。

H区で見つかった堀

H区

写真中央の土の色が濃い部分が土塁の跡です。

 本しょう寺調査区

中開道遺跡 なかかいどういせき (桜井町)

 中開道遺跡は、碧海台地上に位置し、周辺には堀内古墳や碧海山古墳のほか、古代~中世の遺構である円光寺境内地や寒池遺跡が存在します。

 調査の結果、鎌倉時代の溝や149を数える柱穴などが見つかりました。遺構の時期は大きく平安時代(古代:9世紀)と鎌倉時代(中世:12~13世紀)に分けられます。今回の成果として、これまで鎌倉時代~室町時代を中心とする遺跡と考えられてきた中開道遺跡において、それ以前から人々が生活を営んだ痕跡を確認したことが挙げられます。

 出土した土器

 中開道土器

調査期間

 平成23年1月11~1月17日

調査区全景(南から撮影)

中開道遺跡

 

 

 

 

 

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埋蔵文化財について

 遺跡は、先人の歩みを記録しているかけがえのないものであり、一度壊されてしまうと二度と明らかにすることはできなくなってしまいます。埋蔵文化財センターでは、開発に伴い、やむを得ず壊されてしまう遺跡について、事前に発掘調査を行っています。個人住宅の建て替えの際の調査については調査費用はかかりませんので、お気軽にご相談ください。今後とも皆様方のご理解とご協力をお願いいたします。
  また、発掘調査によって出土した遺物は、埋蔵文化財センターにおいて保管・展示しています。今回紹介した遺跡の出土品も展示してありますのでぜひご覧ください(月曜日・祝日の翌日を除く毎日午前9時から午後5時までいつでもご覧いただけます)。

 

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