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市長のときどきブログ下学上達

最近の出来事の感想やちょっとしたコメントを書いています。
これまでの「月曜のひとこと」と「今月のメッセージ」から変更します。

2021年6月18日

岡本 兵松(ひょうまつ)生誕200周年

本年は、明治用水開削の立役者の一人、岡本兵松の生誕200年に当たります。市内の小学生は、副読本にて明治用水について学びますが、その中で大きく記述される人物名は「都築 弥厚(やこう)」。岡本は弥厚の計画を受け継いだ人物として、扱いは小さめになっています。そんな訳で、明治用水を計画立案した都築弥厚と比して目立たない、この岡本兵松という人物について改めて私自身も調べてみました。

岡本兵松銅像(石井辻原遊園内)

【岡本兵松銅像(石井辻原遊園(兵松公園))】

生い立ち

岡本は200年前、江戸時代末期の文政4年(1821年)8月、現在の碧南市大浜地区の岡本家に生まれました。家業は味噌・しょうゆの醸造と廻船問屋を営んでおり、沼津藩の御用達をされていたそうです。身分は百姓だったものの、大きな商いをして領主にお金を貸すほどの財を成していたため、名字を名乗ることと帯刀を許されていました。

用水計画との出会い

しかし、家業は幕末から維新の歴史の転機に乗じることができず、岡本は32歳の時、安城市石井町に土地を購入しました。そこは五ヶ野と言われる原野で水利のない荒れ地だったものの、この土地の所有者は都築弥厚の身内であり、岡本は都築弥厚の用水計画があったことを知ります。岡本はその計画に光明を見出したと思われ、その後は家督を弟に譲り、自らは五ヶ野で新たな事業を興すべく開墾作業に取りかかります。

用水開削へ退路を断つ

農耕に新事業への活路を見出そうとした岡本でしたが、もともと水のない原野では、夏の日照りと水不足で作物は枯れ期待した実りは得られませんでした。水利の必要性を痛感した岡本(37歳)は、用水開渠について江戸幕府に請願を出しています。さらに後の明治元年にも、岡本(47歳)は京都に徒歩で出かけ、明治政府の行政機関に弥厚の計画継承を願い出ました。そして翌明治2年、48歳の岡本は、後半生を用水開削に賭けようと不退転の決意で、実家の家財をたたみ石井町に転住しました。

廃藩置県の荒波

その後も、岡本は豊橋の三河裁判所、赤坂(現豊川市)の三河県役所へと請願の提出を続けましたが、いずれの役所も間もなく廃止されてしまいました。明治4年には、廃藩置県によりできた伊奈県支庁(現豊田市)へ4度目の出願をし、ようやく取り上げられることとなったものの、県が額田県へと改変されことにともない、請願はまたも日の目を見ることはなくなりました。こうした幕末から明治への社会制度改革によって、5年間の苦労が無駄骨になってしまったことを嘆き、岡本は一時気力を喪失してしまったそうです。

執念の請願

再び気持ちを立て直した岡本は、額田県に請願を提出し、とりあえず採択されることになりましたが、明治5年に額田県は愛知県に改変されてしまいました。それでもその後、岡本は「伺い書」を持って愛知県庁に出向いたところ、県の人事異動で県令(今の知事)に就いた安場保和(やすばやすかず)の目に留まり、安場県令が強い熱意を示したため新用水の開削実現への道が開かれました。安場県令は前任地の福島県で国の殖産興業のかけ声の下、安積疏水(あさかそすい)という大用水事業を官営事業として進行させてきた実績があり、彼によって新用水開削の意義の大きさがようやく認められたということでしょう。

伊豫田との計画合体へ

現在の豊田市南部に生まれ育った大庄屋の伊豫田與八郎(いよだよはちろう)は、矢作川右岸の低湿地の水害に悩み、これを解決すべく排水路開削の計画を作り、岡本同様に岡崎藩、額田県、愛知県へと請願を続けていました。岡本の用水計画と伊豫田の排水路計画は、それぞれ別の計画でしたが、愛知県は共通した矢作川の水問題として計画を合体し、明治6年に両人の連名で届け出をさせてそれを受理しました。ここに至って、非願だった明治用水の開削実現への第一歩が踏み出されることとなりました。

岡本・伊豫田の協力

幕末から続いた国の混乱の中、愛知県によりこの新しい用水建設の準備が進められましたが、建設については工事を県が進めることとされ、その資金調達と地元の説得は請願者、つまり岡本と伊豫田がこれに当ることとなりました。岡崎藩内の大庄屋だった伊豫田は主に出資者の獲得を引き受け、また用水開削に反対する村への説得は岡本が行うと役割分担をし、それぞれ精力的に各地を回り歩きました。

通水への道のり

資金獲得も村々の説得も紆余曲折があったものの、明治11年、ようやく県からの事業許可を得ることができました。しかし、実際の工事は県直営のような形となり、県と出資者の間で交わした契約や村々との約束は反故(ほご)にされることもあり、かなり強引に工事は進められたようです。このため出資者は当初の期待ほどの開墾地の払い下げを受けることができず、またその後の地価下落などもあり、計画者や出資者にとって不遇な結果となったものの、地域農民にとっての恩恵は極めて大という結果に至ったようです。

素掘りの明治用水

【素掘りの明治用水(大正時代 明治川神社東)】

あとがき

6月19日(土曜日)、石井町の兵松公園にて「岡本兵松翁生誕200年記念式典」が開催されます。私も市長として出席することとしていますが、それに際しての事前勉強とすべく、この原稿をまとめることとしました。もちろん上記の全てをあいさつで紹介する訳ではありませんが、こうした周年の記念事業があればこそ、過去の歴史に思いを馳せ、改めて郷土の偉人が残された足跡の歴史的な意味を考える貴重なきっかけになると思いました。

今回の原稿は資料として、「安城市史(安城市)」、「碧南を駆け抜けた熱き風たち=碧南人物小伝=(碧南市教育委員会)」、「明治用水をたずねて(明治用水土地改良区)」などをもとに、岡本兵松について私なりにまとめてみたものです。いつかどなたかから聞いた記憶のある話もあれば、初めて知った事実もあり、非常に興味深く各資料に目を通してまとめることができました。

歳月とともに忘れられるのが過去の出来事ではありますが、忘れてはならないこの地域の歴史的な事実とその意義を、こうして語り継いでゆくことが大切だと実感しました。明治用水建設と長年の維持管理に携わられた、多くの皆さま方に心より感謝申し上げます。

明治用水水源(歴博絵葉書)

【明治用水水源(歴博絵葉書)】

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市長の動き

2021年6月19日(土曜日)

時間

行事

場所

午前10時 岡本兵松翁生誕200年記念式典 石井町

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