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更新日:2013年10月10日

本證寺 鼓楼 genzon

本證寺 概要

 本證寺は鎌倉時代後期に慶円(きょうえん)によって創建されたと伝えられる真宗寺院です。室町時代中期には連如の布教によって本願寺派に属し、岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに真宗三河三か寺として大きな勢力をもちました。永禄6年(1563)秋ごろに起こった三河一向一揆では中心寺院として本願寺門徒を率い、徳川家康と戦いましたが、5か月後には破れ、三河は真宗禁制の地となりました。その後天正13年(1585)に禁制が解かれると、本堂などの再建を果たし、江戸時代には三河触頭三か寺の一つとして再興を遂げ、その末寺は二百余寺を数えるほどの寺勢を誇りました。

 

 

 

解体修理

 鼓楼は太鼓楼とも呼ばれ、時を告げる合図として中に設置された太鼓を鳴らしたことからこの名があります。浄土真宗に特有の建物で、ある程度の寺格を有する寺院にしか建立されていません。

近年、建物の各所に傷みが目立つようになったため、平成18年度に解体修理を行いました。

発見された二つの年号

 修理のために解体を進めていくと、様々な部材に年代が記されていることが分かりました。それらには、「宝永七年」(1710)、「宝暦十年」(1760)と書かれていました。

宝永七年

宝暦十年

「宝永七年」の墨書のある棟木の赤外線写真

「宝暦十年」のヘラ書や墨書

 「宝暦十年」と記された部材は、解体しなくては書けない場所から発見されているため、「宝暦十年」が鼓楼の建造年代と考えられます。一方、「宝永七年」と記された部材は、一部が外側に出ていたり、材質が他に使用されている材とは異なる栂材であったりすることから、もともとは他の建物に使われていた材を転用したもののようです。

修復の記憶

鼓楼修復後文化財に指定された建物は、一般の建物と異なり、構造などに支障がない限り、材料はできるだけ再使用します。腐ったり壊れたりした箇所だけを新しくし補います。今回も折れたり腐ったりした部材は取り替えましたが、被害の小さいところは、埋木などをしています。また瓦も使えるものは再使用しています。

 過去の修復でも、建造当初からの部材で可能なものは再使用されていました。そのため、部材の違いから修理した箇所がわかります。鼓楼は安政4年(1857)に一度、全解体され1階部分が拡張されていることが分かりました。安政元年(1854)11月4日に安政東海地震、翌5日に安政南海地震が発生しました。このとき鼓楼は長い年月の傷みに加え、地震による被害を受けたため修復が必要になったと推測されます。

 また、昭和19年(1944)12月7日に発生した昭和東南海地震と翌年の1月13日に発生した三河地震により、2階部分が傾いたと伝えられ、1階も何らかの被害があったと思われます。そのため、昭和20年代に主に1階部分の修理が行われました。

 今回の修復以前は、2階の屋根はすべて本瓦葺でしたが、1階の屋根は東面のみ本瓦葺で、他の三面は桟瓦葺でした。しかし明治時代に写された写真では、東面と南面が本瓦で葺かれていました。これにより、今回1階の屋根はすべて本瓦葺にしました。

修復前⇔修復後

 

修復前

修復後

修復前
修復後

 

 

 

お問い合わせ

生涯学習部文化振興課文化財係
電話番号:0566-77-4477   ファクス番号:0566-77-6600