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更新日:2015年7月22日
概要明治航空基地は、東端町・根崎町・和泉町にまたがる地域(旧碧海郡明治村)に造られた飛行場です。周辺住民の協力や近隣の中等学校生徒による勤労動員などもあり、突貫工事で建設が進められました。工事の途中、昭和19年(1944)5月20日から第345海軍航空隊明治派遣隊によって、基地の使用が開始されました。彼らは実戦用の新鋭機を使いこなせるようにするための錬成教育を受けました。 戦局が悪化し、アメリカの長距離爆撃機B-29が来襲するようになると、迎撃戦に参加するようになります。明治航空基地からは、昭和19年12月13日から翌年2月15日まで、計14回の出撃が行われました。 |
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明治航空基地非常用発電所の発掘調査非常用発電所(ひじょうようはつでんしょ)は、かつて明治航空基地の北地区にありました。電源が使用不可能になった場合、中に設置した発電機によって基地内の施設に電気を供給するための施設です。実際にどの程度使用されたかは明らかではありません。 平成21年(2009)、ほ場整備事業に伴い破壊されるおそれがあったため、急遽記録保存を目的とした調査を実施しました。本市における2例目の戦争遺跡発掘調査でした。 本市における最初の戦争遺跡発掘調査は、御用地遺跡(ごようちいせき/柿さき町)です。古代集落遺跡ですが、調査地がかつての岡崎航空基地内にあったため、素掘りの防空壕跡などが見つかりました。( 御用地遺跡) 施設はコンクリート造の半地下式で、2か所の出入口、平屋根の通路部およびアーチ型屋根の本体部からなります。本体部の壁厚は約80cm、三和土(たたき)の覆土を約1m盛ってあります。室内は奥行14m、幅5m、高さ4mを測ります。側壁は高さ1.6mまで垂直でそれ以上はアーチになっています。 床面にはコンクリート製の台が造り付けられています。ディーゼルエンジンを支えたとみられる鉄筋が残り、奥にも発電機を取り付けたと考えられます。天井中央には2か所の通気孔が設けられています。 このように非常用発電所は、内部の様々な構築物やその規模から、現在残存する明治航空基地の遺構のなかでも貴重なものであることが明らかになりました。
↑ 非常用発電所測量図(JPG:537KB) ↑ 非常用発電所内部 ↑ ディーゼルエンジン・発電機設置台
↑ 海軍マークのついた食器(ホーロー製) ↑ 昭和のガラス瓶 |
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燃弾庫燃弾庫(ねんだんこ)は、基地に配備された航空機に使用する燃料(ドラム缶入り)や弾薬を、空襲から守るために造られたものです。本体は、全体が土で覆われカムフラージュされていましたが、ほとんど地上に露出しています。
↑ 燃弾庫1(平成21年撮影) ↑ 燃弾庫2(平成26年撮影) |
その他の施設明治航空基地は、戦後、関係者に払い下げられ大半は耕作地に戻されました。基地本部であった木造の兵舎は、昭和22年(1947)に開校した明祥中学校の校舎として昭和60年(1985)まで使用され、その後取り壊されました。わずかに残されていた構築物も徐々に撤去が進み、現在確認できるものは上記のほかに弾薬庫など9か所のみとなっています。コンクリートやレンガで造られた施設で、当時の様子を今に伝える貴重なものとなっています。
↑ 弾薬庫(平成21年撮影) ↑ 用途不明施設(平成21年撮影) ↑ 防空壕(平成21年撮影) |
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