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更新日:2014年4月30日
為朝と鬼の力競べの図 |
群馬図 |
奉納額 |
根崎八幡神社(ねさきはちまんじんじゃ、根崎町)は、江戸時代の寛永15(1638)年に、津島牛頭天王社(つしまごずてんのうしゃ)を祀ったことがはじまりとされます。その後、元禄7(1694)年に、根崎村の領主だった松平正基(まつだいらまさもと)の屋敷の近くにある江戸深川八幡(現在の富岡八幡宮(とみがおかはちまんぐう))から分けていただいた魂を迎え(勧請(かんじょう))、八幡宮となりました。
紹介する絵馬及び奉納額は、いずれも歴史的、地域的特色を持つとともに、「群馬図」は幕府の御用絵師によって描かれるなど、美術的にも優れていることが評価されています。
勇ましい弓の名手であった源為朝(みなもとのためとも) が、2匹の鬼と力競べをするようす描かれています。源為朝の絵は、その勇ましさから、疱瘡(ほうそう、天然痘(てんねんとう))をはじめとした病気や災いをよける力があると信じられていました。
奉納者である「山本氏」は、根崎村で庄屋を務めた家柄です。宝暦7(1757)年に矢作川の堤防が壊れて洪水になった時には、その時の庄屋だった山本半兵衛が、伊勢神宮から授かったお札 (御神符(ごしんぷ))を堤防に埋めて、復旧工事を成功させたと伝えられています。
馬が描かれる伝統的な絵馬ですが、太陽や松などの縁起物も描き加えられています。画面全体に金箔が散らされ、金具には金メッキが施されるなど、奉納時はとても豪華なものだったことがわかります。
奉納者である「源正賢(みなもとのまさかた)」は、江戸に住む根崎村の領主で、三千石の旗本だった松平正賢(まつだいらまさかた)のことです。また、絵師の「狩野素川(かのうそせん)」は、室町時代から江戸時代にかけての一大画派であった狩野派の画家・狩野彰信(かのうあきのぶ、後に章信(あきのぶ)と改名)を指し、幕府に仕えていた御用絵師(ごようえし)でした。
「人者依神之徳添運(ひとはかみのとくによりてうんをそえる)」と書かれています。
奉納者「源正相(みなもとのまさすけ)」は、「群馬図」を奉納した松平正賢の子・正相(後に正延(まさのぶ))のことです。文政6年(1823)年に父の死後、領地を引き継ぎました。領主が二代にわたって領地の神社に額を奉納したことになります。
墨の痕跡は確認できますが、 文字は判読不可能でした。 |
裏 表 |
惣作遺跡(そうさくいせき)は木戸町にあり、市域東部の鹿乗川の流路下とその左岸に広がっている弥生時代から平安時代にかけての遺跡です。
「惣作遺跡出土木簡」は2点あります。いずれも奈良時代のもので、文字を書く練習に用いられた習書木簡(しゅうしょもっかん)です。当時は、紙がとても高価だったので、筆で木の板に文字を書いて練習し、文字でいっぱいになると表面を削って再び使いました。
このうち1点(右側)からは、「呉部足国(くれべのたりくに)」という人名が読み取れます。「呉部(くれべ)」という氏族は、かつて渡来人(とらいじん)の呉(くれ)氏に仕えていた渡来系氏族と考えられます。
当時、文字を書くことのできる人間は都のあった奈良に集まっていたため、地方からの木簡の出土例は極めて少なく、三河地方においては、三河初の木簡として注目を浴びた小川町の下懸遺跡に次いで2例目となります。さらに人名が解読できる木簡の出土は愛知県内初であるとともに、正倉院文書に記述のある氏族が、考古資料で裏付けされる例は非常に稀まれ なことです。また、木簡の出土は、近くにそれらを使っていた役人や、彼らがいた役所(官衙(かんが))などの存在を意味します。周辺に奈良時代の役所があったかもしれないということは、安城の古代史を考える上でも重要です。
正倉院 文書(しょうそういんもんじょ) にある貢進 歴名帳(こうしん れきめいちょう、奈良の都の役所に仕えるにあたって、その戸籍( こせき)を調査し書き出した文書)には、三河 国 碧海 郡 呰見(あざみ) 郷出身の呉部浄虫(きよ むし)と、その家の主として呉部呰 麻呂(あざ まろ)の名が記されています。碧海郡呰見郷の位置については、「あざみ」から「あざい」へと読みが転じたと考えて、現在の西尾市東浅井町および西浅井町付近と考えられています。ここは、惣作遺跡から南東約1km という近い位置関係にある場所です。つまり、木簡に書かれた「呉部足国」は、西三河南部の古代氏族「呉部氏」の一員と推定されるのです。
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