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更新日:2024年5月2日
本市は1880年に完成した明治用水の豊かな水に育まれ、農業先進都市として発展してきたまちであり、当時世界的な農業先進国であったデンマークになぞらえ、大正時代末期から昭和時代初期にかけて、「日本デンマーク」と呼ばれていました。今回、日本デンマークと呼ばれてから100年となりますので、この機会に豊かな安城を築いた先人の努力を顕彰するとともに、今一度地域づくりの基本と未来への展望を探り、田園と都市の調和のとれた安城の更なる発展につなげていきます。
安城町を中心とした碧海郡は大正末期から昭和初期にかけて、当時の代表的な農業国家デンマークになぞらえて「日本デンマーク」と呼ばれるようになりました。
デンマークは19 世紀後半以降、各種協同組合を作り農業の共同化をはかり、酪農や養鶏をとり入れることで豊かな国となりました。
「日本デンマーク」がいつ、だれによって使われはじめたかはよくわかりませんが、その呼び方を全国に伝えたのは大正15 年(1926)5 月に発行された雑誌『農政研究 日本の丁抹(デンマーク)号』でした。この号では当時農業のやり方が進んでいた碧海郡を「理想郷」とし、そのもととなる力が教育の力によるものだと評価しています。
大正末期から全国から視察者が訪れ、碧海郡農会・安城町農会・明治用水・丸碧農業倉庫・愛知県立農業補習学校・板倉農場等を巡りました。
碧海郡の中でも、安城は発達した組織組合や多角的な農業経営、充実した教育・指導機関が集中しており、日本デンマークの中心地として認められていました。
明治用水が明治13 年(1880)に完成し、近代農業用水として碧海台地を中心に水が供給されるようになりました。はじめは2,000 ヘクタールだった田の面積が明治40 年(1907)には8,000 ヘクタールを超えるようになり、耕地は大幅に増えました。
多角的な農業経営は、日本デンマークといわれるようになった理由のひとつです。現在でも安城の特産品のひとつでもある梨は、明治後期から栽培が始まり、少しずつ広まっていきました。大正期にはいると、共同出荷や品質の統一、販売先を拡げることによって「三河梨」というブランドで全国的な梨の産地として有名になりました。さらに、梨以外にもスイカや卵など、ブランド化して全国へ出荷する作物も多くありました。
板倉農場では、米作りのほかに梨・スイカ・キャベツの栽培、豚や鶏の飼育によって一年中無駄なく働ける多角的な農業経営
を行っていました。広い耕地ながら数人の家族だけですべての仕事を行いました。碧海郡の農業を調べに来た人々は必ずと言っていいほど、この板倉農場を訪れました。
産業組合は農会とともに現在の農協の前身となる組織で、中小の商工業者や農家が出資金を出し、それを基に低利融資などの信用事業を行いました。明治39 年(1906)には共同購入や生産物の販売、精穀・籾摺等の機械を共同で利用できるようになりました。
碧海郡は愛知県下でも有数の産業組合が広まった地域で、全国的にみても盛んに活動していました。特に大正4年(1915)に設立された碧海郡購買販売組合連合会(通称、丸碧)は全国有数の産業組合連合会で、卵・大根切干の販売、米麦の保管・販売、肥料・飼料の購買事業をおこなっていました。その中でも丸碧の名前を有名にしたのは卵の販売です。大正12 年(1923)の関東大震災の際に救援物資として卵を東京へ送ったことがきっかけで取引が始まり、「色は白くて石より固い」をキャッチフレーズにシェアを大きく伸ばしました。さらに、総合病院である丸碧更生病院を設立し、農村振興にも大きく貢献しました。
大正12 年(1923)以降、愛知県によって設立がすすめられた農事改良実行組合は碧海郡では特に活動が盛んで、日本デンマークの原動力のひとつとしても評価されていました。個々の農家が独立した経営を保ちながら、出荷検査における品質の管理や産業組合を通しての共同出荷などに大きな成果をあげました。
明治34 年(1901)10 月、安城村に愛知県立農林学校が開校しました。初代校長の山崎延吉は学校の生徒だけではなく、地域の人々への指導にも力を入れるなど、碧海郡の農業をリードした人物です。農林学校では地域社会のリーダーとなる人物を育てることをめざし、農林業界の中心となって活躍する人材を多く育てました。
また、小学校を卒業した人々が教育を受ける場として、農業補習学校がありました。農業補習学校では、修身・国語・算術などの一般科目の他に、農業、女子は加えて家事・裁縫の科目があり、農業の担い手を育てました。市域では大正期から設置されていき、各小学校に併設されていきます。さらに、碧海郡には県立の農業補習学校も設置されるなど、教育機関が充実していました。
女子の教育機関としては、明治45 年(1912)に寺部だいによってつくられた安城裁縫女学校(のちの安城女子専門学校)、大正10 年(1921)に安城町立としてはじまり、のちに県立となった安城高等女学校がありました。安城高等女学校では農林学校の先生を招いて、課外で農業実習をおこなっていました。
昭和6 年(1931)に安城町農会が図書館をつくります。当時、碧海郡には町立・村立図書館が5つありましたが、町農会がつくった図書館は珍しいものでした。この安城農業図書館は、農民が知識を得たり、教育を高めたりすることを目的につくられ、村単位で構成された読書組合の組合員のみに図書の貸し出しをおこなっていました。
28 歳の若さで明治34 年(1901)に愛知県立農林学校の初代校長として安城に赴任し、碧海郡で農業の指導者として活躍しました。延吉は、地方振興は民衆それぞれの自覚に基づき地域の実態に沿うべきである、という考え方で活動をしていました。地域の青年たちが通う夜学で講義をおこない、農林学校以外の場でも講演し農業改善に尽力しました。大正期には全国で演説をおこない、地方団体の権限の伸長を主張するなど、地方社会・地方民の自主性・自発性を重んじていました。
愛知県立農林学校の卒業生で、稲の品種改良や農業指導などで活躍しました。明治39 年(1906)に17 歳の若さで愛知県立農事試験場に入り、人工交配による稲の品種改良で大きな功績を挙げ、「稲の神様」とも呼ばれました。その他にも農業技術の指導や各地の農会主催の講演会に参加するなど、地域の農業振興に大きな貢献をしました。また、大正14 年(1925)以降農事試験場で発行された農業技術の向上を目的とした月刊誌『安城農報』の編集を手掛けるなど、多方面で活躍しました。
大正4 年(1915)に古井信用購買利用組合の理事となり、組合の発展に尽くしました。第一次世界大戦後には古井信用購買利用組合が県下でも優秀な産業組合として評価され、和市も指導者として知られるようになりました。昭和3 年(1928)に丸碧会長に就任し、その発展に尽くし、農村医療を改善すべく、組合立の病院の設立を企画し実現しました。戦後も安城市農協の初代組合長になり、安城の農業に大きく貢献した人物です。
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