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更新日:2016年8月9日
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概要築城年は不明ですが、文亀3年(1503)、松平信忠(安城松平家三代:1490-1531)は大浜称名寺に禁制を与えており、この前後に安城松平家が水上交通の拠点である大浜に関わりを持ち始めたといえます。安城と大浜の途次にあたる東端城は、両地を行き来した信忠のころに整備されたと考えられます。 1576年(天正4)以降、碧南市羽城(はじょう)の長田重元の子、尚勝(ひさかつ)を城主としていました。しかし、1584年(天正12)に、小牧・長久手の戦いで功績のあった尚勝の弟直勝(なおかつ)が、兄に代わり1000石を加増されて城主となります。1590年(天正18)、徳川家康の関東移封に従って多くの家臣団が関東へ移住しますが、直勝はこの地に留まりました。その後、直勝は姓を永井に改めて永井伝八郎直勝と名乗り、1617年(元和3)の大阪冬の陣での活躍で、常陸国笠間城32000石の城主となり転出しました。このとき東端城は廃城になりました。 廃城後400年にわたり当時の曲輪の状況をよく残しています。主曲輪は、方形あるいは台形に近い形で高さ8~10mの土塁に囲まれています。北東から南の土塁の外側には幅10~15mの帯曲輪が取り付いています。また、土塁の東側と西側には、周囲より高くなった方形の平坦部があり、その場所は物見櫓的な機能を果たしていたと考えられます。
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所在地東端町中縄手13-1 東端城(主曲輪)現況写真 |