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更新日:2016年2月23日

平成23年度の調査

安城市内には現在250箇所以上の遺跡が残されています。私たちはそこから先人たちが生きた時代の生活を知ることができます。

平成23年度は、発掘調査・試掘調査を27件実施しました。その中から5件をここで紹介します。

 本證寺境内地(野寺町)

  ※現在は国指定史跡「本證寺境内」という名称ですが、国史跡の指定前(平成27年3月以前)は県指定史跡「本證寺境内地」という名称であったため、この名称で掲載しております。

 三河三か寺の一つに数えられる本證寺は、鎌倉時代後期に開かれた西三河地方の中心的な真宗寺院です。境内地の周囲には土塁や二重の堀が巡っています。この戦国時代の城のような作りから城郭伽藍または城郭寺院と呼ばれ、愛知県の指定史跡になっています。

 今回の調査は、本證寺境内地の北と東側の外堀推定地にあたる部分(8・14次)と江戸時代頃までは内堀と外堀にはさまれた境内の内側にあたる部分(9~13次)の調査であり(図1)、調査地のほとんどが江戸時代に描かれた本證寺の絵図に記されている「百姓家」の範囲にあたりました。

 8・14次調査区では、外堀と推定される溝が確認されました。8次調査では、工事に伴う掘削深度が浅かっため、外堀は破壊されることなく地中に眠っています。14次調査では、堀が調査区北側の道路の下を通っていることがわかりました。

 9~13次調査区を全体的に見た場合、溝状の遺構が東西方向と南北方向に十字に交差してました(図2)。これは、絵図には描かれていませんが、区画溝と考えられます。ひときわ大きな溝(11次調査区)は、幅4m、深さ0.6mで、本證寺山門前の内堀からほぼ垂直に走っていた可能性も考えられます。溝から出土する遺物は、戦国時代の鍋や釜、フイゴの羽口、陶器などでした。

 これまで行ってきた本證寺周辺の調査では、外堀が戦国時代、永禄6年(1563)~7年(1564)に起きた三河一向一揆の頃に存在していた可能性が高いことがわかってきました。また、今回の調査により、江戸時代の絵図に描かれていない戦国時代の本證寺寺内における人々の生活の痕跡も明らかになりました。

 

 

 

 

 本證寺調査期間

11次調査区

11次調査区

調査区の奥を横切る溝が区画溝です。

本證寺出土土器

戦国時代の鍋・釜

本證寺堀と調査位置

図1:本證寺境内地外堀復元と調査位置図

本證寺9~12次

図2:11~13次調査区平面図

高畑遺跡(高木町)

  高畑遺跡は碧海台地の東端、北から南に向かって半島状に飛び出た部分に位置しており、東側に広がる低地との比高差は5mほどあります。

 平成18年度には、今回の調査区から北東方向に25mの地点で調査がおこなわれ、奈良時代から室町時代の遺物や遺構が確認されました。

 今年度の調査でも柱穴や溝などの遺構が見つかりました。調査区南西隅で確認された幅1.6mの溝からは、奈良~平安時代の陶器が出土しました。

 高畑遺跡の南には山崎遺跡や北浦遺跡、根崎遺跡(上条町)などの平安時代~鎌倉時代を中心とした遺跡が展開しており、この辺りの台地上では古代から集落が営まれてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

調査期間

    平成23年4月15日~5月19日

高畑遺跡出土遺物

溝から出土した土器

高畑遺跡溝

平安時代の溝

 山崎城址(山崎町)

  山崎城は元は大岡城と呼ばれ、天文12年(1543)に松平信孝によって築かれました。

今回の調査区は自然地形を利用し築かれた方形の主曲輪内部(本丸内)の南西部分にあたります。巨大な堀と土塁をめぐらせた県内でも有数の中世城館跡でしたが、昭和43年(1968)以降の土地改良工事により堀と土塁の大半が消滅しています。

 調査の結果、調査区の大半は、重機の爪跡がはっきりと残っていました。これは土地改良工事の際に削られたと考えられます。それでも、調査区南側では飛鳥時代(7世紀)の竪穴状遺構と奈良・平安時代(8~10世紀)の掘立柱建物2棟を確認することができました。しかしながら、山崎城と関わりのある戦国時代の遺溝は、調査区南西隅で発見された深さ0.6m、残存幅1.3mの溝のみであり、この溝からは古代・中世の陶器とともに16世紀の羽付鍋や常滑産の甕の破片が数点出土するに留まります。

これらのことから、城と関係する遺構は明確にはわかりませんでしたが、周辺には山崎城よりさかのぼる平安~鎌倉時代にかけての山崎遺跡や城跡南遺跡が存在し、これらの遺跡との関連性が想定されます。

 

 

調査期間

    平成23年3月29日~4月29日

山崎城址掘立柱建物

掘立柱建物(柱を人に見たてた様子)

掘立柱建物

掘立柱建物イメージ図

 本神遺跡(古井町)

   碧海台地の東縁部に立地し、南と東側を流れる堀内川が台地を削って形成した低地に面しています。昭和39年(1964)、土取り工事中に大量の土器が発見され、緊急発掘調査が行われた遺跡です。調査によって発見された溝は、弥生時代の集落を取り巻く環濠(集落の防御もしくは区画・排水のためのものと考えられています)になります。この環濠は平成16・20年度の調査でも確認されました。

 今回は、道路拡幅工事(調査区A)と個人住宅建設(調査区B)に伴い行われました。

 調査区Aにおいてこれまで想定されてきた環濠の続きとなる溝を検出しました。環濠は、弥生時代後期(およそ1,900年前)に掘削されたもので、幅3m、深さ約2.5mの断面V字形、底部は今まで調査してきた環濠と同じく足がやっと入るくらいの幅しかありませんでした。環濠の中からは壺・甕・高坏などさまざまな土器が出土しました。その中には近畿地方のタタキ甕を手本にしてつくった甕が含まれ、土器の交流という点からみても全国的に注目されます。しかし、これらの土器はほとんどが同じ時期のもので、長期間にわたって機能していた環濠ではないようです。弥生時代の終わり頃に一時的に存続していた環濠が、短い間に廃絶したと考えられます。

 調査区Bからは、同時期の竪穴住居が1棟発見されました(下写真)。平成16年度の調査結果とあわせると住居の平面は、一辺が5.5mの正方形になります。建物の壁周りには浅い溝(これを壁溝と呼びます)がくっきりと巡り、中央には火を焚いたとみられる炉跡が見つかりました。住居は比較的環濠に近い場所にあり、集落の中心部分から外れていますが、東側に広がる鹿乗川流域遺跡群と二子古墳をみわたせる見通しの良いところにあります。平成20年度の調査でも竪穴住居が4棟ほど確認され、今回の1棟を含め環濠より内側には集落の居住域が展開していることが確実となりました。

 本神遺跡は西三河でも大規模な環濠を伴った弥生時代の集落です。今回の調査では、台地上にある環濠の規模や位置、土器の種類や時期などの情報がさらに加わり、弥生時代後期から終末期の集落を解明する手がかりとなりました。そして1棟ではありますが、竪穴住居の形態がわかったことは新たな成果となりました。

本神竪穴住居

 竪穴住居

 

調査期間

    平成23年11月12日~12月16日

    平成24年1月11日~2月9日

本神環濠復元図

環濠復元図

本神環濠

調査区A(北東から撮影)

  古井堤西遺跡(古井町)

 碧海台地上に位置しており、台地の東側の低地には弥生~古墳時代を中心に営まれた大集落遺跡である鹿乗川流域遺跡群が存在します。

 過去に行われたこの遺跡の調査では、古墳~戦国時代までのさまざまな時代の遺構や遺物が見つかっています。今回の調査では井戸とみられる直径2.7m、深さ2m以上の大きな穴が見つかり、戦国時代の羽付鍋や常滑の甕、木製品が出土しました。

 調査区の北西側には柱穴が集中していました。これらの柱穴が掘られた時代は、まだ礎石が用いられておらず、直接柱を地面に埋めていました。このとき柱の沈みこみを防ぐため、柱の下に平らな石を敷く場合があります。こうした石が3か所の柱穴から見つかりました。

 今回の調査では戦国時代の遺構が中心でしたが、弥生・古墳時代の土器も出土しており、周辺遺跡の調査も含め、さまざまな時代の遺構や遺物が確認されていることから、この地域では人々の生活が連綿と営まれていたことがうかがえます。

古井堤西石

柱の下に敷かれた石

一番上の石が水平になるように、4つの石が組み合わせてありました。

古井堤西遺跡木製品

 井戸から出土した木製品

(桶の底)

調査期間

    平成24年2月17日~3月4日

古井堤西掘立柱建物

掘立柱建物(柱を人に見たてた様子)

掘立柱建物

掘立柱建物イメージ図

 

 

 

 

 

 

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