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更新日:2015年5月26日

平成26年度の調査

本證寺境内(野寺町)

 本證寺境内は、近年、内堀や外堀、土塁の一部など、当時の姿を良好に残す、全国的にも希少な史跡であることなどが認められ、平成27年3月10日、国指定史跡となりました。

 

 これまで行ってきた外堀範囲確認調査では、(1)伽藍絵図や地籍図などから外堀の位置を復元した図とほぼ同じ通りに外堀が巡っていたこと、(2)外堀は戦国時代に掘られたこと、(3)外堀は江戸時代後期に再整備されていることを確認しています。

 また、境内東側では寛政年間(1789-1801)に描かれた伽藍絵図にみられる「百姓家」にあたる部分でも調査が行われており、本證寺周辺に住んだ人々の生活が徐々に明らかになっています。

 

 今回の調査は、境内西側の部分で行いました。調査の結果、(1)16世紀中頃に掘られた外堀を江戸時代後期に再整備した痕跡を確認(位置は復元図とほぼ同じ)、(2)沼と思われるくぼ地を確認、(3)井戸とみられる大型土坑を確認しました。

 沼と思われるくぼ地の底では、水がたまったような土層を確認できました。土層からは16世紀前半までの遺物が出土することから、外堀が掘られた16世紀中頃までにはくぼ地があったと考えられます。

 また、大型土坑からは室町時代の羽付鍋や瀬戸・常滑窯産の陶器など、多くの遺物が出土しました。もとは井戸として利用されていたと考えられますが、最終的には廃棄土坑となったのかもしれません。

 

     

 L区完掘(西から撮影)                P区大型土坑(東から撮影)

アロー2 調査位置(JPG:136KB)

アロー2調査区(JPG:68KB)

 外堀や大型土坑から、遺物が出土しました。写真は、江戸時代後期の擂鉢や室町時代の羽付鍋、瓦などです。

 

前畑遺跡

 前畑遺跡は、過去に平安時代や鎌倉時代の土器・陶器が採集されていたことから遺跡とみられていました。

 

 調査の結果、古代の竪穴状遺構や中世の大溝などを確認しました。竪穴状遺構は、遺構上面が近現代の造成によって削られてしまっており形も崩れ気味で深さも浅いものでしたが、床面の一部に奈良時代の土師器や須恵器が散らばっていました。住居であったのかもしれません。

 大溝は、検出最大幅2.3m、深さ1.3mあり、断面形はV字に近く急傾斜で落ち込みます。底には水がたまっていたかのような粘土層が堆積しており、内耳鍋や擂鉢などが出土しました。15世紀後半を主体としており、その規模から屋敷地を区画した溝である可能性が高いと考えられます。

 調査区完掘(南西から撮影)

 古代の竪穴状遺構(北西から撮影)

 中世の大溝(北東から撮影)

 竪穴状遺構や大溝から多くの遺物が出土しました。古代の須恵器や土師器、中世の擂鉢や内耳鍋などがあります。遺構からの出土ではありませんでしたが、緑釉陶器の破片も出土しました。

 

宮下南遺跡

 宮下南遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期に盛期を迎えた大集落群「鹿乗川流域遺跡群(かのりがわりゅういきいせきぐん)」に含まれる集落跡です。鹿乗川流域遺跡群に重なり、古墳時代前期の二子古墳や姫小川古墳をはじめとする「桜井古墳群」も展開しています。

 

 調査の結果、古墳時代前期の溝や江戸時代後期の溝などを検出しました。これらは、平成13年度に行われたほ場整備に伴う発掘調査で確認された溝の続きであることがわかりました。

 古墳時代前期の溝からは、多くの土師器が出土しました。壺や甕などの日常的な土器のほか、古墳などに並べられることもある二重口縁壺、祭祀に使われたとされる小型丸底壺、近畿地方などで使われたものと同じ形の高坏などがみられます。この地方の交流拠点であった鹿乗川流域遺跡群の特徴を表すとともに、古墳に葬られた人物との関係もうかがわせます。

 江戸時代後期の溝では、両岸に護岸のためとみられる木杭や板が打ち込まれている状況を確認できました。桜井村絵図(文政2年/1819年)に西鹿乗川から桜井神社に沿って水路を引いている様子がみられ、この溝はその一部と考えられます。このような水路を用い、農業などの用水として河川を利用しようとした当時の様子が垣間見えます。

 調査区完掘(南東から撮影)

 古墳時代前期の溝(南西から撮影)

 江戸時代後期の溝(東から撮影)

 古墳時代前期の溝から出土した土師器です。二重口縁壺や小型丸底鉢、畿内で使用されていたものと同じ形の高坏などが出土しました。なかには、平成13年度の発掘調査で出土した土器と接合できるものもありました。

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