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更新日:2016年12月19日

それぞれの70年目(2016年11月)

憲法公布70年

11月3日(木曜日)の「文化の日」、この日の新聞各紙の社説には「日本国憲法公布70年」という記事が大きく取り上げられていました。文化の日なのになぜ「文化」よりも「憲法」を大きく取り上げるのだろうかと思いつつ記事を読んでみますと、そもそも1946年(昭和21年)の11月3日は日本国憲法が公布された日だったということを確認しました。戦後新たに見直された憲法は、戦争放棄と主権在民、そして平和と文化の大切さを強調した内容であったため、2年後の1948年(昭和23年)に「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを旨とし、文化の日とされたものです。

しかし、憲法に関する記念日といえば、一般的に5月3日「憲法記念日」を思い浮かべます。現在の憲法は1947年(昭和22年)5月3日に施行されており、これを記念し、この日を「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」こととして、翌年に憲法記念日が制定されたものです。

終戦間際の今本町の風景

【終戦間際の今本町の風景】

戦後の主な祝日は、1948年(昭和23年)7月20日に公布・即日施行された「国民の祝日に関する法律」によって法制化されたため、日本国憲法にかかわりの深い「文化の日」も、「憲法記念日」も、ともに同時に決定されたようです。これらの流れを分かりやすく箇条書きにすると、次の通りとなるでしょう。

・1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法が公布される

公布とは「成立した法令・条約などの内容を広く一般国民に知らせるために公示すること」を意味しています。

・1947年(昭和22年) 5月3日 日本国憲法が施行される

 施行とは「法令の効力を発生させること」を意味しています。

・1948年(昭和23年)7月20日 「文化の日」「憲法記念日」が法制化される

 「国民の祝日に関する法律」によって主な祝日が法制化されました。

私たち国民からすれば、大変ややこしい憲法関連の祝日の決められ方と感じます。実際、1948年当時、新憲法に基づく新たな祝日を定めるため法案の審議が国会で行われ、「憲法記念日」をいつにするかが議論されました。

当時は衆議院と参議院で意見が割れ、衆議院では施行日の「5月3日」、参議院では公布日の「11月3日」とする意見が多かったとされています。最終的に参議院は、先に審議を行った衆議院の意見を尊重して、「5月3日」を憲法記念日とする法案を可決したそうです。

このように過去の国会でもかなり議論が分かれた両祝日ですので、私たちが祝日の趣旨を取り違えたとしてもやむを得ないと思われます。いずれにしても今から70年前に、新しい日本国憲法による新しい国家運営の方向性が示され、その瞬間から日本の戦後復興への歩みが始まったと言えましょう。

安城文化協会創立70周年

日本国憲法公布70年と同じ日の11月3日、安城文化協会創立70周年の記念式典が、文化センターで盛大に開催されました。安城文化協会は1946年(昭和21年)4月29日に設立されています。前年の1945年(昭和20年)が終戦ですので、そこから1年もたっていない戦後の混乱期に、よくぞ文化の旗揚げをされたものと私は感心してしまいます。

安城文化協会事務局開設時の様子

【安城文化協会事務局開設時の様子】

安城市の歴史をまとめた「安城市史」を開きますと、協会設立の事情について中心となられた方のことばをこう記しています。「終戦直後のことで、当時世相は混とんとしていました。悪く言えば戦争ボケしていたんですね。(略)文化活動を通して、世の人を戦争ボケから目を覚まさせなければならない」。

戦前まで「日本デンマーク」と呼ばれた安城は米の生産地であり、他の地区からたくさんの人々が食料の買い出しに来ていたということですので、厳しい食糧事情ながらも恵まれた地域だったと思われます。終戦間際に三河地震に見舞われたため、地震で倒れたままの国鉄安城駅には買い出しの人々、復員や引き上げの人々で混雑し、列車の窓から出入りするほどどの列車も超満員だったそうです。若い復員兵らによって「復員者接待所」が設けられ、湯茶の接待や荷物運びの手伝いが行われ、そのことが明るいニュースとして取り上げられた時代でした。

昭和40年代の国鉄安城駅前の様子

【昭和40年代の国鉄安城駅前の様子】

そんな食うや食わずの時代、立ち上げられた文化協会設立趣意書にはこう書かれています。「戦に敗れたわが国が平和国家として立ち直らんとする今日、文化の問題が大切なことは言うまでもありません。ことに戦禍のため文化の中心が中央から地方へ、都会から農村へと移動した現今、農村の中心地であるわが安城町の文化的使命はまた重大なものがあると信じます」。「武士は食わねど高楊枝」ということばを思い出します。何人かの志ある方々が勇気をふるって文化の旗揚げをされたのでしょうが、設立総会時の協会入会者は335名を数えたそうです。

貧しい時代にあってもそれに呼応された市民が数多くおいでになり、新たな文化活動が始まることとなりました。会員は7つの部会に分かれさまざまな事業計画がまとめられ、同年の秋には安城文化が全開したかのように演劇会、レコードコンサート、書道大会、安城美術展、野球大会など、当時としては時代の最先端をゆくさまざまな文化イベントが開催されています。戦時中に抑圧され続けた精神文化への飢餓の反動により、多くの方々が精神の開放と自由な自己表現を求めておられたのでしょう。

安城文化協会創立70周年を祝う会の様子

【安城文化協会創立70周年を祝う会の様子】

桜井中学校創立70周年

11月4日(金曜日)には、桜井中学校創立70周年が桜井中の体育館で開催されました。この催しに出席した時、最近は特に70周年をお祝いする行事が連続することに気がつきました。

そこで私なりにあれこれ調べてみましたところ、1946年(昭和21年)日本国憲法の公布以降さまざまな法律の見直しが進められ、学校教育の根幹をなす「教育基本法」と「学校教育法」も、ともに1947年 (昭和22年)3月に大きく改正され公布されていることを確認しました。この教育基本法の見直しにより、戦後教育の目的は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とされました。

旧桜井中学校校舎

【旧桜井中学校校舎】

そして、その新たな教育理念に基づいた戦後の6・3制義務教育発足に伴い、1947年 (昭和22年)4月、現在の安城市域で安城北中、安城南中、明治中(現在の明祥中)、桜井中の4校が開校されました。とは言え、桜井中では翌年1月に新校舎の棟上げ式が行われているように、どこの中学校も新制中学の新しい校舎がある訳ではなく、さまざまな建物を転用したり、また小学校と同居するなどの形で、とりあえず開校にこぎつけたという実態のようです。安城市史には「窓ガラスは割れたまま、机は不足し、教科書はないようなみじめな状態で中学校は開校された」とありました。

それでもインフレと食糧不足の中で、地域住民からなる手弁当での建設委員、新たに発足されたPTAの皆さん方が、勤労奉仕をされたりバザーを開かれたりと学校整備に尽力されことにより、新制中学としての体をなしていったとされています。食糧不足の時代ながらも当時の安城は農村地帯であり、また直接の空襲も受けていなかったこともあり、当時の愛知県全体から見ればかなり恵まれていたと記されています。

70年目の意義

昨年の8月15日に第2次世界大戦終戦70周年を迎え、戦後生まれの私自身はそこから戦後復興が始まったかのように受けとめてしまっていたのですが、外地ではまだ交戦状態が続いていたようです。また、この地域では1945年(昭和20年)1月に三河地震が発生していたこともあり、事実上の復興はその翌年あたりから始まったと考えるべきなのでしょう。

1946年(昭和21年)に、国家の根本原則を定める基本法である新しい憲法が公布され、それに伴ないさまざまな法律が制定されたことで、戦後から現在につながる社会制度が形づくられてきました。それによって新しい国民の生活が再スタートしたと考えれば、日本国憲法公布70年目の今年は、真の戦後復興からの70周年に当る記念すべき大きな節目といえましょう。

私たちの意識は、とかく終戦の年である1945年(昭和20年)に向かいがちなのですが、日本が戦後の本格的な復興に向うスタート年である1946年(昭和21年)にももっと注目せねばならないのではないかと感じました。飢餓と混乱、そして報道管制の時代ゆえ、残された記録は少ないのが現実ですが、過去をふり返ろうとした時、本棚に眠っていた「安城市史」が役に立つことを実感しました。

 

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