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更新日:2015年12月2日

戦後70年 軍歌にみる歴史(2015年8月)

軍歌が創られた時代 新聞のコラムより

国民を鼓舞し若者を戦地に誘(いざな)ったであろう「軍歌」は、そもそも太平洋戦争に至る直前、日中戦争の最中に大手マスコミ各社が競い合って公募したものであることを、8月13日の日本経済新聞社のコラムで知りました。そこで調べてみますと、主な軍歌の創作された背景とその歌詞は概ね以下の通りでした。

「露営の歌」 昭和12年 毎日新聞が国民から歌詞を公募

「勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからにや 手柄たてずに死なれよか…」

「海行かば」 昭和12年 NHKが大友家持の歌を改変

「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ…」

「父よあなたは強かった」 昭和13年 朝日新聞が国民から歌詞を公募

「父よあなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍とともに寝て…」

「出征兵士を送る歌」 昭和14年 講談社が国民から歌詞を公募

「わが大君に召されたる 生命栄光ある朝ぼらけ 讃えて送る一億の 歓呼は高く天を衝く…」

多くの一般国民からの公募による詩で創作された軍歌からは、戦争への忌避感は表現されることなく、戦地に向かわれた兵士らへの応援歌となっており、当時の国民の意識や世論の一端が垣間見えるようです。戦地の悲惨な状況は報道管制により伝えられず、一方でこうした勇ましい軍歌が世に広められ国民の戦意が高められたのでしょう。

日本の国が太平洋戦争へと向かった直接的な大きなきっかけは、昭和11年の「二・二六事件」という凶悪なテロであり、この暴力行為が軍人・政治家やマスコミ、言論人や国民の神経をマヒさせたのではないかと評論家・保坂正康氏は「あの戦争は何だったのか(新潮新書)」で指摘しておられます。

とは言え、太平洋戦争に突き進もうとした社会の空気に対して、疑問を感じた人たちは軍人の中にもいたようです。国際感覚に優れ、後に海軍大将にまで昇進した井上成美は、日本と欧米諸国との国力の差を熟知しており、開戦前に「対米敗北必成論」を上官に提出しています。その他のアメリカやイギリスへの留学や駐在の経験がある武官らも、軍幹部に戦争回避の進言をしていたようです。

しかし、こうした国際感覚の長(た)けた軍人の多くは、軍の中枢から遠ざけられるようになり、国粋主義者を中心とした軍部や国家に変わってゆきます。第1次大戦後の世界恐慌や関東大震災、さらに欧米諸国からの対日経済封鎖により日本国内は混乱に陥り、八方ふさがりの打破策として戦争への道が拓かれようとし、軍国主義の賞賛と国民の戦意高揚のために軍歌が創作されていったものと想像されます。

安城市平和祈念式典での式辞の様子

【戦後70年安城市平和祈念式典での式辞の様子】

軍歌より文化の戦地 演劇「南の島に雪が降る」より

戦時中、国内で広く歌われていたであろう軍歌なのですが、戦地の最前線で戦っていた兵士の方々はどんな思いでこうした軍歌を耳にされていたのでしょうか。その歌詞の内容が、地獄絵のような戦地そのものを描写した軍歌もあり、あまりの生々しさに生死の淵をさまよう兵士からは、「こんな歌を作ったやつは殺してやりたいぐらいだ」という声が漏れたという話があります。

私はこの夏休み中に、「南の島に雪が降る」の観劇をしました。この話は、太平洋戦争末期、ニューギニアに出征された俳優の故加東大介氏の従軍経験手記によるものです。兵器も食料も不足し、かつマラリアに苦しみながらも、アメリカ軍と戦わざるを得ない兵士らの過酷な軍隊生活が描かれています。当時の戯言(ざれごと)ではありますが、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われていたようで、現実にニューギニアとその周辺地域だけで5万3千人もの方々が亡くなっておられますので、いかに激しい戦闘があったかがうかがえましょう。

自らがいつまで生きていられるのか、また祖国日本はどんな状況なのか。何も分からない絶望的な状況の中で、兵士らが渇望したものは恋しい祖国を偲ばせてくれる「生きる縁(よすが)」でした。故加東氏はかつての俳優経験を評価してくれた上官からの命を受け、ニューギニアで演芸分隊を立ち上げ、兵士らの慰問活動を行うこととなりました。

この「南の島に雪が降る」は、現地の慰問活動での実話に基づくストーリー展開とされていますが、劇中劇の舞台で演芸分隊が披露した歌舞・演芸において軍歌を耳にしたことはありませんでした。心身ともに疲弊してしまい、日々、死や狂気と向かい合う兵士たちにとって、生きる力や希望になり得たのは、昔ふるさとで皆一緒に合唱した日本の唱歌や庶民的な演芸だったのです。

当時よく知られていた劇「瞼の母」の舞台では、紙吹雪を使い雪を降らせる場面で、客席から毎回どよめきと歓喜の声があがったようです。ある日の公演では会場があまりにしんとしているため、不審に思って舞台の袖から客席をのぞいてみると、数百名いた兵士らが皆、涙を流していたそうです。聞くところによると彼らは東北の部隊だったというエピソードも実際にあったようです。

戦争が長期化するにつれ、国や家族を守るため一般国民が兵隊として戦地に駆り出されるようになりました。彼らは日本国民の義務として、また自らの宿命と割り切り出征せざるを得なかった方々であり、勇ましい軍歌によって見送られたものの、生死を賭けた過酷な戦地では軍歌を口ずさむ心の余裕すらなくしておられたようです。改めて戦地に散華された皆さまのご冥福をお祈り申し上げます。

戦後70年安城市平和祈念式典で白菊を献花いたしました

【戦後70年安城市平和祈念式典で白菊を献花いたしました】

軍歌を止める抗争 映画「日本のいちばん長い日」より

また夏休み中には、「日本のいちばん長い日」という映画も観ました。この映画は太平洋戦争末期、勢いに乗る連合国側が昭和20年7月26日にポツダム宣言を公表し、日本がそれを受諾するかどうかを巡る国内の混乱と葛藤が描かれたものです。この宣言以降、政府や軍部の中からは侃々諤々(かんかんがくがく)の激しい議論が交わされるようになり、険悪で不穏な空気が漂うようになってゆきます。

ちょうどこの昭和20年には4月に新たな組閣が行われており、天皇陛下のご意向により、内閣総理大臣には鈴木貫太郎、また陸軍大臣には阿南惟幾(あなみこれちか)が就任しています。もともと鈴木貫太郎は海軍出身の軍人であり、海軍トップを務めています。また阿南惟幾は陸軍出身のエリート軍人で、信頼と人望が厚く陸軍で一目置かれる存在でした。陛下を中心にこの二人が日本の終戦に向けて重要な役割を果たすことになります。

ところで、そもそも鈴木は元来「軍人は政治に関与せざるべし」という信念を持ち、また高齢でもあり、当初は首相就任を固辞していたようでした。しかし、鈴木はかつて陛下の侍従長であったため、陛下が直々に「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と懇願されました。また阿南も陛下の身辺警護をする侍従武官に就任していたことがあり、当時の侍従長は鈴木だったため、陛下は阿南も懐かしがっておられたというお気持ちを忖度(そんたく)する形で、陸軍大臣就任となりました。陛下はすでにこの時点から早期の「終戦」をお考えであられたのです。

かつて開戦への伏線として、「二・二六事件」という軍人による残虐なテロ行為が発生しており、陛下は終戦への過程でも同様の流血の惨事が起きるものと予見しておられたようです。よって、陸軍・海軍それぞれから一目置かれる重鎮を内閣に入れることにより、軍部の反乱を防ぎ多くの犠牲者を出すことなく終戦にたどり着くという筋道を、陛下ご自身が描かれ、それを実行に移すための組閣でした。

この「日本のいちばん長い日」の原作者である半藤一利さんは、映画の解説書の中で「戦争を始めることはある意味簡単であるが、終えることは本当に難しい」と述べておられます。実際、鈴木首相、阿南陸相ともに、「終戦」という陛下のご本意を知り入閣するのですが、陸軍・海軍それぞれに強い影響力を持つ二人であっても、徹底抗戦を望む陸軍の若手将校らに武装蜂起させることなく終戦に導くために大変な苦労を強いられ、その結果、彼らの入閣から終戦に至るまで約4カ月もの月日を要してしまいました。

特に7月26日のポツダム宣言発表から20日余りの間には、広島、長崎に原爆が投下された他、地方都市までもが執拗に空爆を受け続けています。過去の歴史を変えることはできませんが、もう少し早い段階で内閣の「ポツダム宣言受諾」の結論がまとまっていれば、罪のない一般国民の多くの命は救われていたことでしょう。返す返す残念としか言いようがありません。

昭和20年8月15日正午の陛下による「大東亜戦争終結の詔書」のラジオ放送(玉音放送)に向けた最後の1日には、その放送を阻止し連合国との本土決戦に持ち込もうとする血気盛んな若手将校らによる暴動が起きてしまいます。しかし、陛下のご聖断を重んじる軍人や宮内庁職員、放送局員など、それぞれが機転を利かして危機を乗り切り、陛下の玉音放送は予定時間通り無事にラジオの電波に乗りました。この玉音放送までの昼夜にわたる陸軍内部の攻防が、「日本のいちばん長い日」のタイトルの由来になっています。

第2部平和祈念祭での中学生9人による平和への誓い

【第2部平和祈念祭での中学生9人による平和への誓い】

軍歌のない未来へ 安倍首相談話より

私は現在57歳です。戦後生まれの私たちが先の大戦を理解しようとすれば、歴史博物館に出かけたり、刊行物を読んだり、また史実に即した映画や演劇を観る以外に手段は残されていないように思われます。それでもそうした戦争に関する史実に触れても、私自身、いつも戦争のごく一断面を知ったに過ぎないのではないかという思いがつきまといます。やはり大戦前後のさまざまな情報が大量に保管されている国家が、国としての総括をするという必要性を感じてきました。

そんな折、先の8月14日に安倍首相の「戦後70年談話」が表明され、改めて新聞で全文を読ませていただきました。やや長めの前段は、先の大戦に至る歴史的な経過がまとめられており、歴史に疎(うと)い若者たちへのよき説明になっていると思われます。談話は全体的に先の大戦を分かりやすく総括されており、日本国としての大戦に対する見解と、今後の世界平和に貢献しようとする明確な意志が伝わってきました。

また談話には、「積極的平和主義」という素晴らしいことばが用いられていました。今後は、こうした平和を志向しようとするわが国の姿勢と、現在国会で審議されている安全保障関連法案との関係を、談話と同様に多くの国民と諸外国に対して分かりやすく説明される必要があると感じました。日本が再び戦火を交える意思のないことと、世界の恒久平和をリードしてゆくという姿勢を、今度は具体的に国会での法案審議等を通じて内外に明確に伝えていただくことを期待しています。

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